カワサキレーサーのお好きな御方にお薦めです♪

本文記事は「RIDERS CLUB」誌94年7月号に掲載された
本誌編集長・根本健氏の分文筆を抜粋させて頂きました。

’60年代後半から’71年春まで、世界GPに憧れロードレースに熱中していた僕は
カワサキ系チームに所属していた。’60年代は日本のメーカーが世界市場に進出する目的で
世界GPにチャレンジ、西も東もわからない状態から瞬く問に頂点まで駆け登った激動期だ。
何といってもレーシングマシンの開発ピッチが凄い。
パワー競争は20000rpmの超高回転エンジンを生み、2気筒が4気筒になり4ストのホンダは
5気筒や6気筒に達し、パワーバンドが狭いため2スト小排気量では14段ミッションという、
途方もないマシンが開発されたのだ。
そして’70年からの気筒放とミッション段数の制限を前に、
僅か10年にも満たないチャレンジの幕を全メーカー撤退というカタチで閉じてしまった。
カワサキは最後発で125ccのマシンを開発、
同じ2ストのヤマハやスズキを追うカタチで2気筒から4気筒14段ミッションに
迫いついたところでストップということになった。世界GPを撤退してからのカワサキは、
世界一大きなスポーツ・バイクのマーケットだったアメリカをターゲットにデイトナにチャレンジを続行。
Al(250cc)やA7(350t)そしてあの3気筒マッハVのネーミングで有名な
H1(500t)と量産車をべ一スにした市販レーサーでワークス活動を続けていた。

僕がカワサキ系チームで過ごしたのはこの世界GP終盤期とデイトナ挑戦にかけて。
全日本にA1-Rで出場しながらカワサキのテストに
も同行させてもらい、ピーキーでパワーバンドが800rpmくらいしかない憧れの
125GPマシンにもようやく乗せてもらったりした。当時カワサキは川崎航空機だったから
飛行機に詳しいエンジニアがいたり、トーハツやブリヂストン(バイクもつくっていた)など
バイクから撤退したメーカーからの移籍組エンジニアもいたが、
とにかく少人数で他人にかまわずに個々が黙々と仕事と取り細む、
10代の僕にはちょっと怖いくらいの緊迫したムードが漂っていた。
後発だけどいつか追いっき追い越す、誰がいうでもなくそんな凄まじいエネルギーが
いつもあった。そしてこれがいわゆるカワサキ・カラーだったのだ。

あの頃はいまのようにテスト・ベンチでシュミレーションなどできなかったから、
ほとんど実走行テストがシェイク・ダウンで、それは様々なトラブルが出ていた。
エンジンの焼きつきは口常茶飯亭でブレーキ・ドラムが割れたりミッションがロックしたり
チェーンが切れたりと、挙げていくとキリがない。
ある日、FlSCOのテストで真黒に塗られた大柄なカウルのレーサーが持ち込まれた
H1-Rのプロトタイプだ。ウォームアップが終わっていよいよコースイン。
ピット・ロードを半クラッチで2スト3気筒独得のサウンドが響かせながら加速。
ところがそのピット・ロードでいきなり排気音が途切れた。
マシンはストップしていたが、カラカラカラと音を立てて何か塊だけが
ピット・ロードを駆けていく。クラッチ・ユニットだ。パワーに耐え切れず
メイン・シャフトが折れてしまったのだ。笑うに笑えない、当時としては切実な言舌しである。
トラブルの種類によっては転倒を免れないライダーは相当な緊張を強いられる。
これは何もカワサキだけでなく当時はどのメーカーも似たようなものだったはずだ。

辛かったのはAlやA7がロータリー・バルブという吸人方式で、
キャブレターが左右に横を向いて装着されていて転倒するとこのキャブが削れてしまい、
アグレッシブにコーナーを攻めるので転倒の多かった和田選手は
遂にもったいないからとカウルを外され、キャブに保護カバーのボックスをつけたマシンで
レースを走らされたこともあった。
無理もない、ワークス・マシンのマグネシウム・ボディのキャブは
1個で当時のサラリーマンの半年分の給料だった、F.R.P.製のカウルも
同じように高価なものだったからだ。
“人問はホッといてもいつかなおるやろ、
マシンはホッといてもなおらん、全もかかるし手間もかかる……"
ほとんどのライダーがこのキツイ一発を見舞われた。

こんな軍隊のように戦闘的な緊迫感の中で、
ほとんど手探りの繰り返しで生まれていったカワサキのバイク。
“やってみなわからん."という聞こえようによっては随分と乱暴な話しだが、
事実そうだったのだから仕方ない。
谷田部のバンクを200km/hだとバイクが安定しないと、
実験走行ライダーのキヨきんはFフォークのボトムケースに
アルミ板で小さなウィングをつけて走っていた。
後発だけど気負けしないゾという迫力が新たなチャレンジを生み、
マッハからZ-1へとステップアップを確かなものにしていったのだと思う。
しかし、世界のマーケットで成功を収めみるみる大きくなったライバル・メーカー達は、
自社のテストコースを持つようになり次第にテストもシステム化していった。
対して後発のカワサキは依然としてサーキットに出かけたり
市販車は明石から一般公道を走りながら谷□部までテスト出張の日々
を続けていた。僕はプライベートでレースがしたくてカワサキ系チームを去ったが、
傍目でみていてもカワサキは母体が大規模産業グループにもかかわらず
小さな集団のやり方を変えようとしなかったのだ。
いまになって思うのは、バイクの開発はあまりシステム化せず、
大変な苦労を強いられても手間を惜しまずに手探りの部分を大事に残した方が、
生きたバイクがつくれるような気がする。
カワサキがいま他のメーカーに差をつける一番現実的なバイクを白然につくれてしまう
土壌を築けたのも、後発だからというエネルギーを忘れずに
面倒な手問を惜しまない、そんな体質を維持してきたからではないだろうか。

1994年 ライダースクラブ誌 7月号掲載 :記事 根本 健 氏
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根本氏のレースヒストリーを綴った手記「グランプリを走りたい」はコチラ↓



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(多分、本屋さんで取り寄せ注文となるでしょうが・・・ まだある筈?!)

GAレーサーやA1Rでのレース参戦〜 世界GP(ヤマハTZ)等の内容が書かれております。
機会があれば是非に読んでみてください〜